Editions BEAUCHESNE

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MISES EN SCÈNE DE L’HUMAIN Sciences des religions, philosophie, théologie

MISES EN SCÈNE DE L’HUMAIN Sciences des religions, philosophie, théologie

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Date d'ajout : lundi 10 février 2020

par .. ..

Jacques EHRENFREUND et Pierre GISEL, 『Mises en scène de l’humain ―Sciences des religions, philosophie, théologie』, Paris, Beauchesne, 2014
ジャック・エーレンフロイントとピエー�-
�・ジゼルの『人間のミジャンセン――宗教�-
�と哲学そして神学――』(パリ、ボーシュ�-
�出版、二〇一四年)(未訳)を読む

1 はじめに
スイスの現代神学者ピエール・ジゼル(一�-
��四七~)は、『人間のミジャンセン――宗教-
学と哲学そして神学――』(2014)で、宗教とい-
うのは何なのかを質問する。 
この本は、2012年6月、スイス・ローザンヌ-
国立大学の近代宗教文化研究所(IRCM:Institut Re-
ligions Cultures modernité)が主催したピエール�-
�ジゼルの引退記念講演会の講演録である。�-
�分野の8人の講演者の講演録からなる。宗教�-
��会学分野は、ダニエル・エルヴュ・レジェ(-
Danièle Hervieu-Léger)が、近代哲学分野は、セルジュ・-
マルジェル(Serge Margel)が、ユダヤ学分野は、ジャック・エー�-
�ンフロイント(Jacques Ehrenfreund)が、宗教人類学分野は、シルビア・-
マンシーニ(Silvia Mancini)が、西洋のニューエイジ運動分野は、�-
��ファエル・ルセロー(Raphaël Rousseleau)が、サウンド・スタディーズは、テ�-
��ボー・ウォルター(Thibault Walter)が、欧州の18世紀の宗教学の胎動に関す-
る研究はクリスチャン・グロス(Christian Grosse)が、最後に神学の分野は、ピエール・�-
�ゼルが担当している。この講演会では、宗�-
�というキーワードを中心として、宗教性と�-
�統、他者性とユダヤ性、信仰と異教徒の神�-
�、サウンド・スタディーズと宗教学、そし�-
�神学の新たな位相の再確立に関して、深い�-
�析による講演と、それに対するジゼルのコ�-
�ントが興味深い。
そして、付録として、同年11月9日、スイ�-
�・ローザンヌの国立大学の宗教学/神学部が�-
��催したピエール・ジゼルの引退記念の講演�-
��の講演録である。講演のタイトルは、「個�-
��者の抵抗と普遍性の陥穽――体と伝統、そ�-
��て境界の転覆の方法」である。この講演を�-
��じて読者は36年間キリスト教神学と宗教の�-
�係を思惟しつづけてきたピエール・ジゼル�-
�宗教思想の核心を読み取ることができる。r /> ジゼルとスイスのローザンヌ国立大学の�-
�代のユダヤ学部のジャック・エーレンフロ�-
�ント教授が共編し、2014年に出版したもので�-
��る。
ここでは、これらの講演録を読み解き、�-
�ゼルの視角に注目し、「『人間のミジャン�-
�ン』としての宗教」、「エクセ(excès)」�-
�「この世」、「個人的な主体の誕生  」と�-
��キリスト教の中心人物、イエス・キリスト�-
��、そして「個別者たちの抵抗と普遍性の陥�-
��」についてジゼルの論を紹介し、それがア�-
��アの神学にどのように援用できるか考える�-
��口としたい。

2 「人間のミジャンセン」としての宗教<-
br /> 本書の講演では、どの研究者も宗教を歴�-
�的観点から考えることを提案している。歴�-
�の中で形成された制度と伝統に関して、系�-
�学的な観点から宗教を見ることが必要だと�-
�うのである。系譜学的な研究とは、ある宗�-
�を歴史的状況から切り離して、形而上学的�-
�観点から研究するのではなく、その宗教が�-
�史の全過程の中で、どのように形成され発�-
�したのかを研究するものである。このよう�-
�視点から、本書ではつぎのような点につい�-
�問いかけられている。キリスト教を含めて�-
�ユダヤ教やイスラム教、そして諸宗教が、(�-
��欧)文明とどのように絡み合い、人間の文�-
��と歴史の中でどのような関係を結び、形成�-
��れたのだろうか。また、他の宗教の伝統と�-
��のように関係を結び、また、そこで起こる�-
��藤をどう克服したのだろうか。諸宗教が対�-
��する中で、どのように交流し、どのように�-
��に成長し発展しているのだろうか。 
ピエール・ジゼルは系譜学的な観点から�-
�キリスト教という宗教を歴史の産物、そし�-
�人間の文化の産物として理解している。そ�-
�ため、キリスト教を歴史過程から大きく切�-
�離して、形而上学的観点から研究観察する�-
�とはしない。ピエール・ジゼルの理解によ�-
�と、キリスト教は歴史の流れの中に定着し�-
�いる宗教であり、人間の文化の中で自ら機�-
�する宗教である。そして、キリスト教は脱�-
�史化した宗教、脱文化化した宗教ではなく�-
�西欧の歴史と文化の流れの中で、周辺の宗�-
�――例えばユダヤ教や神秘主義、そして秘�-
�主義――の影響を受けつつ成長し発展して�-
�た宗教である。そしてジゼルにとって、キ�-
�スト教は、人間の歴史の中で形成されたも�-
�であるから、人間的などんなものを含有し�-
�いるのである。つまり、ジゼルはキリスト�-
�を含む様々な諸宗教を人間の歴史の中で演�-
�されたものだと理解しているのである。こ�-
�をピエール・ジゼルは「人間によってミジ�-
�ンセン」されたものであると述べている。(�-
��〇、七二、一一四、一二二頁)。

3 「�-
�教というのは何なのか?」
宗教というのは何なのか? ピエール・ジ�-
��ルによれば、この質問は、現在も進行する�-
��間社会の変化を研究する研究者なら、少な�-
��とも一度は提起すべき重要な質問の一つで�-
��るという。宗教というのは人間が、作って�-
��る社会や文化を理解しようとするとき、参�-
��になる一種の症候群であるからだ(二三一�-
��)。
キリスト教の現代神学者であるジゼルに�-
�って、宗教というのは何なのかを質問する�-
�とは、これまでの宗教研究において重要な�-
�位を占めていた神または超越者、世界や人�-
�について再検討することとも同義である。�-
�の再検討の第一歩は、この用語が現在、人�-
�の歴史や社会の中で、どのような機能を持�-
�のかを問うことである(一八〇頁)。そし�-
�、キリスト教の中心人物であるイエスが、�-
�代人にどのような意味を与えているかを新�-
�い角度から考え直す必要があるのだという�-
� 
ジゼルは、キリスト教は、西欧が近代期�-
�入って以降、以前のような位相を保てずに�-
�るという。このようなキリスト教の相対的�-
�位相の変化は、キリスト教内における位相�-
�変化にも影響を与えている。一方、後期近�-
�期と呼ばれている今日、宗教の地形は、全�-
�界で急速に変わりつつある。言い換えれば�-
�宗教の地形が、みるみるうちに再編成され�-
�再構成されているのである(二二九頁)。�-
�えば、ヨーロッパ内では、多くの新興宗教�-
�作られており、仏教のようなアジアの宗教�-
�ヨーロッパに流入し、ヨーロッパ社会に多�-
�な影響を及ぼしている。
ところで、ジゼルによると、キリスト教�-
�、初期の段階から宗教を「religare」として理-
解しているという(八三頁)。つまり、宗教-
がまず、この世や人間を超越と結びつける役-
割をし、続いて宗教が、人間と人間を結びつ-
ける役割をし、さらには宗教が、人間の制度-
の舵取り役となったのだという。
このような宗教の理解は、キリスト教が�-
�立する以前の宗教理解とは対照的であると�-
�えよう。キリスト教が成立する以前に人び�-
�が理解していた宗教は、「religare」としての-
宗教である。キケロ(106-43B.C.)は、宗教を-
「religare」だという。キケロは、宗教は宇宙�-
��広大さと深い関係があるという。人間は宇�-
��の広大さに対して過度に不安を感じ、宇宙�-
��広大さに関して過度に黙想したり瞑想する�-
��向を持つのである。そして宇宙の広大さの�-
��に解読しなければならない暗号があるとい�-
��態度を持つようになる。このような態度は�-
��宇宙の中心に人間を置き、この世を理解し�-
��うとする驕慢な態度とは対照をなす。
ジゼルによると、キケロのような宗教観�-
�、トマス・アクィナス(1224頃~1274)が再び-
取っているという。トマス・アクィナスは、-
宗教(religio)を「人間の徳」と理解したキケロ-
の宗教理解を踏襲している(八四頁)。とこ-
ろで、トマス・アクィナスにとって、宗教は-
信仰とは異なるものである。トマス・アクィ-
ナスは、信仰に関して『神学大全』で別章を-
割いて深く論じている。この別章で、トマス-
・アクィナスは信仰を「神徳」と関連させて-
思惟している。神徳とは、信頼・希望・愛の-
三つのうちの一つの信頼である。この信頼は-
徳として理解されるのである(八四頁)。
ここで、トマス・アクィナスのいう信仰�-
�、今日、現代人が「実証的信仰」と呼ぶも�-
�とは異なるものである。トマス・アクィナ�-
�の言う信仰は、「一任する」、「委任する�-
�というような意味を持つ。ラテン語では「fi-
des」と表現される一種の「信頼」である。こ-
の「fides」は、この世との関係の中で、自分�-
��役割を果たすことを意味する。ここでいう�-
��この世」とは、受け入れなければならない�-
��この世」が、自分のものとして着服したり�-
��自分のものとして所有したりはできず、使�-
��ことだけができるものである。
トマス・アクィナスのいう「信頼」とい�-
�用語は、近代期のオーギュスト・コント(17-
98-1857)が提案した「信仰の体系」ともその-
考えを異にする。近代期に入って、キリスト-
教は、オーギュスト・コントのいう「信仰の-
体系」という用語を快く受け入れ、自らのも-
のとしてリモデリングしたと、ピエール・ジ-
ゼルは批判している(八四頁)。

4 「エクセ(excès)」 :人間の限界�-
�超えたあるものとしての超越
ジゼルは、この「この世」や人間自身の�-
�に、人間が統制しきれないものがあるとす�-
�。人間はこの世のすべてを統制することは�-
�きないのである。人間を超えた何か、そし�-
�人間が統制できない何かのことを、ジゼル�-
�「エクセ」と名付けている(四七、四九頁)。-
エクセはフランス語であるが、直訳すれば、-
「超過する」、「過渡」、「余り」となる。-
ジゼルは、このエクセを 「超越」、「神」�-
��またの名として用いるのである。この世の�-
��、この社会の中には、そして人間の中には�-
��「エクセ」があると、ジゼルは見るのであ�-
��。ジゼルは「生」や「現実」がエクセであ�-
��ともいう。 
このエクセは、ジゼルによると、この世�-
�おいて何らかの機能を果たしているという�-
�ジゼルが考えるエクセは、この世にある多�-
�のものの中の一つではない。エクセにどん�-
�名前をつけようが、エクセは人間の生活の�-
�で作用し、人間の限界を超えて機能するも�-
�なのである。
近代以前には、こういった概念は、この�-
�と対称をなせるものではないとして、「非�-
�称(dissymétrie)」と呼ばれたりもしていた�-
�また、「神」と呼ばれることもあった。や�-
�て近代期に入って、「絶対(absolu)」とい�-
�用語で、その機能を説明したのである(四八�-
��)。ここでいう絶対とは、この「世との関係-
を断つ」という意味が込められている。「Ab�-
��solu」の「Ab」は、「いない」、または「違�-
��」という意味をもっており、「solu」は、「-
関係」または「つなぎ」を意味する。つまり-
、「絶対」とは、「関係がないもの」あるい-
は「関係が断たれたもの」を意味する。絶対-
としての神は、「この世との関係を絶対的に-
結んでいない」を表すため、言い換えれば「-
この世とは質的に絶対的に違う」ということ-
を表わすため、キリスト教神学では、「絶対-
」という言葉を使ってきたのである。 
このエクセは、この世にあるたくさんの�-
�のを「同質化させる原理(principe de l'homogénéisation)」、言い換えれば、多くの個�-
��を同じように存在させる「全体化の原理」�-
��して作動するものではない。ジゼルにとっ�-
��、エクセはこの世にあるたくさんのものの�-
��特有性」や「独自性」を保障し、それぞれ�-
��機能を働かせる原理として作用するのであ�-
��。ジゼルは、これを「異質性の原理(princip-
e de l’hétérogénéité)」と呼ぶ。このような「�-
�クセ」としての神は、すべてのものに差異�-
�作り出す原理として働いているのである。r /> こうしたジゼルのエクセについての理解�-
�、根本的には、「存在神論的な神」理解へ�-
�批判から出てくる。「存在神論的な神」理�-
�によると、神はすべてのものを認証する「�-
�越的存在」であり、すべての原因であり、�-
�べての根拠として作用する超越的な存在で�-
�るが、ジゼルのエクセはこれとは異なるも�-
�なのである。

5 この世
ジゼルが考える「この世」は、客観的で�-
�立的な空間ではなく、多様な人間が生きて�-
�る生命の場である(一五三~一五五頁)。�-
�の生命の場で、人間は多様な世界観を持っ�-
�生きていく。人間は、この世で自分の独自�-
�や唯一性を具体化しながら生きているので�-
�る。このような面で、ジゼルは、この世を�-
�複数的である」または「多様である」と表�-
�する。ジゼルはこのように、この世と神と�-
�関係を理解するのである。
キリスト教神学によると、神がこの世を�-
�造したとされている。神によって創造され�-
�この世は、神とは質的に異なるものである�-
�ジゼルはこれを神とこの世の「非対称性」�-
�「非類似性」という用語で表現する。キリ�-
�ト教の聖書は、この点を非常に重要視して�-
�る。神の御言葉によって創造された人間は�-
�この世で生きていかなければならない運命�-
�置かれている(創1:1、ヨハ1:1-3)。しか-
し人間は、この世の中にある秩序に、単に適-
応しながら生きるだけでなく、この世におい-
て自分の運命を新たに作り生きていかなけれ-
ばならない運命を持った存在である。人間は-
この世において、新しい秩序、つまり近づい-
てくる神様の国の秩序を具現しつつ生き延び-
るように召されたのである。以上のように、-
この世は神によって創造された空間であり、-
神とは質的に異なる何かであり、人間があら-
ゆる困難を克服しながら、自らを実現しなけ-
ればならないところなのである。このため、-
ジゼルは、この世を、「人間の実存が成肉身-
される場所」だともいう。自らの「独自性」-
や「特有性」を保っている各人は、この世に-
おいて自らの実存を具体化し実現するために-
、戦いながら生きていくのである。このよう-
な意味で、この世は、神から見れば創造の場-
であり、人間から見れば人間が自らの実存を-
具体化させていく場なのである。人間がこの-
世の中に生まれたままで、この世との関係が-
終結するのではない。この世に生まれたのは-
、人間が存在する根本的な条件であるが、人-
間はこの世で自分の限界を克服しながら生き-
ていくように運命づけられているのである。-

ジゼルが注目する点は、キリスト教の聖�-
�が人間をこの世を管理すべき責任者とみて�-
�るという点である。人間はこの世に属して�-
�るが、この世の中において、あらゆる困難�-
�乗り越えつつ生きていかなければならない�-
�在である。この過程を通じて、人間はこの�-
�に対して責任を持つべき責任者になり、自�-
�は「神のイメージによって創造された存在�-
�」という信仰的悟りを得るようになるので�-
�る。 このような理由から、人間は、この世-
を自分のものとして所有したり、自らの利益-
のためにこの世を破壊したりしてよいのでは-
なく、この世を生命が溢れる場として保存し-
、管理しなければならない任務があるという-
のである。

6 個人的な主体の誕生  
ジゼルは、「個人的な主体の誕生」につ�-
�ても語っている。ジゼルが提案する「個人�-
�な主体」とは、理性を過度に信頼した近代�-
�人間とは質的に異なるものである。「個人�-
�な主体」とは、この世を忘れて、自分自身�-
�埋没した唯我論的な人間観とも異なる。ま�-
�、この世を客観的なものとみて、その中で�-
�立的に生きていこうとする近代的な人間観�-
�もない。ジゼルが主張する「個人的な主体�-
�としての人間は、この世の内部にすでにあ�-
�、この世の中において毎瞬間戦って実存的�-
�生きていく存在である。ジゼルが語る個人�-
�な主体は、この過程を通じて主体性を持つ�-
�人として生まれ変わる。そして、この世の�-
�部にすでにある、様々な象徴体系を自らの�-
�り方で再び象徴化する過程を通じて、個人�-
�な主体として生まれ変わる。ジゼルが提案�-
�る個人的な主体は、この世において困難を�-
�服しながら、まずは神を象徴化し、続いて�-
�の世を象徴化し、最後に人間自身を象徴化�-
�る過程を経るのである。ここでジゼルが語�-
�この世は、生物学的空間であり、同時に人�-
�のあらゆる欲望が満ち溢れている空間であ�-
�。この世は、人間間の葛藤と戦いが発生す�-
�ところであり、同時に新しい生命と新しい�-
�能性が現れる場所でもある。
この世において発生する葛藤や緊張、そ�-
�て限界とその克服を通じて、各人間は、そ�-
�ぞれ独自の内面の世界を作っていく。「個�-
�的な主体」は、このような一連の過程を通�-
�て、自然的存在としての人間から、「個人�-
�な主体」を持つ人間に生まれ変わるのであ�-
�。
ジゼルが語る主体としての人間観は、個�-
�としての主体である。近代の社会が作った�-
�治的集団的なイデオロギーに埋没していな�-
�個人的な立場を持つ主体である。ジゼルは�-
�個人を喪失させて集団に埋没させて生きる�-
�団的な人間観を批判する。そのうえでジゼ�-
�は、そっと個人を弱めて、社会の集団化を�-
�化する全体主義的な世界観についても批判�-
�る。つまり、個々人の独自性や特有性を生�-
�すのではなく、社会のすべての構成員を一�-
�のイデオロギーや一つの理念の下に集めよ�-
�とする同質性の世界観を批判しているので�-
�る。
「個人的な主体」とは、どういうものな�-
�であろうか。自らの主体だけを考えるので�-
�なく、他の人のことも考え配慮する存在で�-
�る。これは個人的な主体が、共同体の中で�-
�者とともに生きていくべき存在であること�-
�意味する。「個人的な主体」は、この世に�-
�いて一人暮らすのではなく、他人と共に生�-
�るべき運命に置かれている。
ジゼルの「個人的な主体」の概念は、極�-
�アジアにおいて、新たな社会を夢見て、新�-
�な主体論や新たな人間観を構築しようとし�-
�いる研究者にも、新たな「個人的な主体」�-
�いう概念の到来をどう図っていくか、多く�-
�インスピレーションを与えられよう。

7�-
��キリスト教の中心人物、イエス・キリスト<-
br /> 本書ではイエスは、人間の歴史において�-
�数多くのイメージを生み出した人物として�-
�介されている。イエスというユダヤの若者�-
�、キリスト教の歴史において、人間とは、�-
�とは何者なのか、多くのことを考えさせて�-
�た。
まず、キリスト教の信仰の歴史から見る�-
�、イエスは「単に人間であるだけだ」と、�-
�ゼルは主張する。人間イエスは、イエスに�-
�き従い、神の真理と人間の真理について思�-
�していた人びとに、この地上でどう生きて�-
�くか、考えさせたのである。このためジゼ�-
�は、イエスをキリストと告白し神学的に思�-
�するときには、人間イエスを歴史の脈絡か�-
�完全に切り離すのではなく、イエスが属し�-
�いた歴史の脈絡の中で思惟することを勧め�-
�。イエスは、ある日、天から降ってきた隕�-
�のような存在ではない。人間イエスは周り�-
�多くの人びとと同じ時代を呼吸し共に暮ら�-
�た。新約聖書では、イエスの周りにいた弟�-
�たちや、イエスにつき従った数多くの人び�-
�が紹介されている。そしてまた、イエスの�-
�は、パレスチナ地域を超えて中東各地で、�-
�多くの人びとによって口伝えで拡散され、�-
�リスト教という宗教の中心人物として紹介�-
�れた。この過程を経てイエスの話は、人び�-
�に人間が考える真理や、神が語る真理とは�-
�なのか考えさせるきっかけとなった。この�-
�エスの話を通じて、人びとは自分たちの過�-
�の経験について再考させられ、また未来へ�-
�新しい夢を見はじめた。このような過去と�-
�来への思惟を通じて、人びとは自分たちが�-
�きる意味を再考させられるようになった。�-
�間は律法と安息日のために存在するのでは�-
�く、律法と安息日は人間のためにあるとい�-
�宣言を聞いて、人間は自らの人生の意味を�-
�考するようになったのである。
以上のように、イエスのメッセージやイ�-
�スの人生の一部分だけに焦点を合わせて理�-
�するべきではない。イエスについて論じる�-
�ら、人間の歴史全体の過程の中で捉えなお�-
�べきなのである。さらには、イエスが来る�-
�、すなわち生まれる前に、ユダヤの宗教や�-
�化に何があったのかについても考えるべき�-
�あろう。そしてイエスが生きていたときに�-
�誰と一緒に過ごしたのか、イエスが死んだ�-
�、イエスの人生と死に関してどのような解�-
�が発生したのかを全体的に見てみなければ�-
�らないとジゼルは主張する。これが、ピエ�-
�ル・ジゼルが主張する「人間の歴史の中心�-
�物としてのイエス・キリスト論」である(�-
�二一頁)。
そのため、イエス・キリストは、神と人�-
�の間に位置する独特の「中間媒介者」では�-
�く、人間とは何者なのか、そして神とは何�-
�なのかという質問をさせる「媒介」として�-
�用するというのである。ジゼルが関心を持�-
�イエス・キリストのイメージは、純然たる�-
�間としてのイエスなのである。イエスは、�-
�リストとして、今日世俗化されたこの世に�-
�いても、ふたたび人間について、そして神�-
�ついて、考えさせる契機として作用する存�-
�なのである。つまり、イエスは、人間や神�-
�ついて思惟するための「媒介の役割」をす�-
�もので、人間イエスについての神学的思惟�-
�深めることで、人間は今日の新たな社会に�-
�するビジョンを作ることができるのである�-
�さらには同様に、すべての個人が自分たち�-
�独自性と唯一性を確保しつつ、共に豊かに�-
�らせる社会、多様性が保障される社会、多�-
�な価値観が尊重される社会という新たなビ�-
�ョンを想像することができると、ジゼルは�-
�張している。 

8  個別者たちの抵抗と普遍性の陥穽。r /> 本書の後半には付録として、2012年11月9日�-
��行われたピエール・ジゼルの引退記念講演�-
��の講演録がある。タイトルは、「個別者の�-
��抗と普遍性の陥穽――体と伝統、そして境�-
��の転覆の方法」である。
ジゼルが、この講演でいう「個別者」と�-
�、各宗教の伝統のことでもあり、人間各個�-
�のことでもある。また、ジゼルがいう「普�-
�性の陥穽」とは、それぞれの個別者が自分�-
�ちの独自性や特異性、唯一性を無視し、皆�-
�同質の世界に陥らせることを意味する。一�-
�の個別者の世界観を、すべての人に適用し�-
�うと強要することの暴力性を、ジゼルは問�-
�うとしているのである。すべての個別者に�-
�つの論理、一つの原理を強要することや、�-
�れを正当化する全体主義的な論理を建てる�-
�とを、ジゼルは「普遍性の陥穽」だという�-
�である。
ジゼルは以上のように「普遍性の陥穽」�-
�批判する。そして、その対案として出す普�-
�性の概念は、それぞれの個別者が自らの独�-
�性や唯一性、特異性が保障されるなかで、�-
�べての他者と共に生きていけることを保障�-
�る普遍性である(二三五~二三九頁)。
副題についても説明が必要であろう。ジ�-
�ルがいう「体」とは、一義的には人間が持�-
�肉体としての体である。ジゼルは、これを�-
�張適用し、制度的な機関をも体と称してい�-
�。
また、「伝統」とは、ユダヤ教、キリス�-
�教、そしてイスラム教のような唯一神教の�-
�教の伝統だけでなく、儒教や仏教、そして�-
�ンドのヒンズー教のような既存の大宗教を�-
�じめ、現在発生している数多くの新興宗教�-
�伝統、さらには数多くの文化の伝統を指す�-

そして、「境界」とは、宗教と宗教の間�-
�境界、文化と文化の間の境界を指す。
これら「体」「伝統」「境界」の内部で�-
�こる転換を指して、ジゼルは、「体と伝統�-
�そして境界の転覆」というのである。 
4章で構成されたこの引退記念講演録で、�-
��ゼルは、再構成・再編成されつつある宗教�-
��現状について分析したうえで、近代が発展�-
��せた普遍性論争の中に隠されている「同一�-
��の論理」が宗教の伝統や人間論に適用され�-
��場合、どのように暴力的に作用するのかを�-
��察する。人間も、宗教や文化の伝統も、「�-
��数性」「多様性」に基づいていると見て、�-
��個別者の「独自性」「唯一性」「特異性」�-
��保障される普遍性の論理の啓発に多くの紙�-
��を割いている。
この引退記念講演録で注目すべきは、神�-
�と宗教学の違いが、どこにあるかを説明し�-
�いる部分である(二四七頁)。
これによると、神学とは、独自の固有の�-
�究の領域を持っている分科としての神学で�-
�なく、近代以降形成された多様な分科を横�-
�(transversal)して、神の真理とは何なのか、そ�-
��て人間の真理とは何なのかを問う「質問の�-
��態」であるという。
これに対し、近代以後形成された宗教学�-
�、宗教というのは何なのかという問を立て�-
�際、社会学、歴史学、心理学、そして人類�-
�など、近代以後発展した多様な方法を用い�-
�「回折関係」を通じて、質問への答えを求�-
�ていくだけのものであるという。 回折関係-
とは、それぞれの分科がぶつかった時に生じ-
る違いや共通点に基づいて、自らの学問的ア-
イデンティティを作っていく方法を意味する-
。これは、客観的そして中立的態度を堅持し-
ながら、宗教についての質問を続ける学問的-
態度であるともいえよう。このような宗教学-
の方法論をジゼルは、平面的なレベルの研究-
であるとして批判している。   

9 まとめ
本書は、内在主義的な世界観から発展し�-
�きた東北アジアのキリスト教を研究する者�-
�、「神」と「この世」そして「人間」に対�-
�る新しい問いかけをさせる良書である。
第一に、ピエール・ジゼルの神学が、超�-
�的神についての批判と見直しの中で形成さ�-
�た西欧の現代神学であるという点で、アジ�-
�の研究者が神学的思惟をする際に、新たな�-
�点を提供するといえよう。
ピエール・ジゼルの神学は、神を過度に�-
�きな存在と意識した西洋の神学を批判し、�-
�時に人間の可能性に対して過剰な期待を抱�-
�ていた西洋近代の哲学を批判する中で、新�-
�な道を見つけた神学といえる。これは固有�-
�神学的な談論においてだけでなく、現在の�-
�教学や宗教哲学に対する批判と検討を通じ�-
�、ジゼルは新たな神学の可能性を探求して�-
�る。
また、「エクセ」という新しい概念を通�-
�て、新たな神のイメージを提案しようとし�-
�点で、ジゼルの神学的思惟は、アジアの研�-
�者にとって意味があろう。しかしながら、�-
�のようなジゼルの神についての理解は、近�-
�以後に形成・発展してきた超越論的神に対�-
�る批判の中から生まれたものであるため、�-
�ジアの研究者たちは次のような疑問を抱く�-
�あろう。内在主義的な世界観の中で発展し�-
�きたアジアの思想の土壌においては、いか�-
�して神についての新たな想像ができるのだ�-
�うか。これはアジアの神学界における論点�-
�して、注目すべきものである。
つぎに、本書はアジア人も生きている場�-
�ある自然について、新たな質問を可能にし�-
�う。近代西洋において発展した自然観で言�-
�れているように、自然をエコシステムと見�-
�のではなく、あらゆるものの根源としての�-
�然理解は、どのようなものであろうか。人�-
�が管理すべき環境としての自然ではなく、�-
�べての生命の根源としての自然という観点�-
�らは、ジゼルのいう「この世」は狭い意味�-
�の人間の社会生活の場だけを意味するので�-
�という批判が起ころう。この世は、人間の�-
�界だけでなく、生命が展開する場としての�-
�の世でなければならない。
これらのジゼルの論からは、今後アジア�-
�展開していく神学は、狭い意味での人間中�-
�主義に基づくものではなく、より幅広い意�-
�で生命が展開する場としてのこの世を神学�-
�思惟の場にすべきであるという示唆が得ら�-
�よう。
最後に、本書は、アジアで神学的思惟を�-
�開しようとする研究者に、どのような新し�-
�人間観を提案できるのか考えさせてくれる�-
�この世で自己実現することによって主体と�-
�るというジゼルの個人的主体論が持つ人間�-
�は、自然の一部として埋没する人間観では�-
�い。だからといって、この世を克服する過�-
�の中では、自然を破壊せざるを得ないと、�-
�明する人間観でもない。ジゼルの個人的主�-
�論は、こうした既存のビジョンとは異なり�-
�第三の道を想起させるものである。そのた�-
�個人的主体論は、人間中心的世界観が引き�-
�こした自然破壊を省察する際にも、有用な�-
�論的道具となりうる。集団主義的世界観に�-
�収されずに、主体としての個人として生き�-
�いく道は、どのようにすれば可能になるの�-
�、ジゼルの個人的主体論がアジアの研究者�-
�問いかけている。


ピエール・ジゼル
スイス・ローザンヌ国立大学宗教神学部�-
�誉教授。『抵抗と克服のあいだの人間』(�-
�訳)をはじめとする40冊あまりの著書や論文-
を発表している。宗教学と宗教哲学、そして-
現代の多様な宗教とキリスト教神学の対照な-
どをテーマに研究を続けている。



韓 亨模(ハン ヒョンモ)
日本基督教団丹後宮津主任担任牧師。京�-
�在住。
著書に『Déconstruction d’une image de Jésus, l’Historicité et la Nature: Réflexion à l’horizon d’une confrontation Orient-Occident sur fond de postmodernité(イエスのイメージの解体、歴史�-
��そして自然――近代後期性における東洋西�-
��の対面の地平についての思惟)) 』(フランスの出版社L’Harmattan,Paris, 2014年)(未訳)がある。論文に「세 유형의 철학적 신:폴 리꾀르, 타나베 하지메 그리고 양명수의 경우(三類型の哲学的神:ポール・リクール�-
�田邊元そしてヤン・ミョンスの場合)」(�-
�神学思想)No.165)などがある。


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